田野前学長・学長顧問インタビュー ~好きなことを貫く力、そして人間万事塞翁が馬~

コンピューターへの憧れに始まり、大学での学科転科、企業での挫折と転機、電通大着任の経緯、そして現在進行中の取り組みまで、波乱万丈のキャリアを余すところなく語っていただいた。
「好きなことを貫く」「言われたことでも腐らずやってみる」という2つのメッセージには、先生自身の生き様がそのまま刻まれている。

田野 俊一 学長顧問

田野 俊一 学長顧問

1958年生まれ、宮崎県出身。1981年3月、東京工業大学制御工学科を卒業。
1983年3月、東京工業大学大学院総合理工学研究科システム科学専攻修士課程を修了。
専門は制御、ファジィ理論、人工知能、システム科学など。
本学(電気通信大学)には、1996年に電気通信大学大学院情報システム学研究科助教授として着任。
2008年に副学長に就任し、その後、学長補佐、研究科長、学術院長などを歴任。
2020年に学長に就任し、2026年3月に任期満了。
現在は、学長顧問を務める。

好きなことを貫く ―コンピューターへの情熱

― 先生のキャリアの原点を教えてください。

 私が高校生のころ、今からちょうど50年ほど前のことですが、物理部に入っていてコンピューターが大好きでした。といっても当時のコンピューターは今とは全然違って、メモリーが10個しかないようなものです。1つのメモリーには10桁ほどの数値しか入らない。プログラムも穴を開けたカードをガチャガチャと読み込ませるような、今の学生には想像もできない代物でしたよ。

 でも、そのちっぽけな計算機でも工夫次第でいろんなことができるんです。メモリーを2桁目・3桁目というふうにビット演算で使い分ければ、50人のクラスの平均値だって出せる。ルート2のような計算も反復処理で求められる。コンピューターってすごいな、と高校1・2年のころから夢中になっていましたね。将来もっと知的になって、人間みたいになるんだろうなというワクワク感がありました。

 同時に、人間の「知的処理」そのものにも強く惹かれていました。コンピューターは確かに知的だけれど、いちばん知的なのは人間の頭だと思っていたので、脳にも興味があって。「医学部に行くか、工学部に行くか」で本気で悩みました。でも血を見るのが嫌いでしたし(笑)、やっぱりコンピューターだなと。情報系の学科を目指して大学を受けました。

― ところが、入学した学科では情報をほとんど学べなかったとか。

 そうなんです。コンピューターをやりたいから情報系の学科だな、と考えて電気系の学科を選んだんですが、入ってみたらみんな半導体をやっているんですよ。今また半導体がすごいですが、当時もそうで、ソフトウェアをやっているのは理学部でした。でも転類(転学科)するには遠すぎる。

 途方に暮れて調べてみると、隣の機械系でロボットをやっている「制御工学科」ならプログラムを扱えることがわかった。電気系から機械系への転科枠があって、制御工学科は両学科から少しずつ入れるという仕組みがあったんです。当時は電気系の方が難易度が高くて格上とされていて、機械系に行くのは成績の悪い人という風潮がありました。電気系から機械系に行くのは、いわば「下に落ちていく」とみなされていたんです。

 でもそんなこと関係ない。好きなことがやれるなら、世間の評価なんて気にしない。周りからはおかしいと言われながらも、制御工学科に転科してソフトウェアの研究に進みました。これがこのメッセージの原点です。

― 就職活動でも同じ姿勢を貫かれたんですね。

 就職先を選ぶ時も、「AIをやらせてくれるなら入ってあげる」くらいの勢いで臨んでいました(笑)。当時はAIが流行っていなくて、情報系で輝いていたのは富士通のような大手でした。富士通に行って「AIやらせてください」と言ったら「お前は制御だからね、制御をやれ」と言われてしまった。やりたくないので断りました。

 そうして見つけたのが日立の研究所です。「AIをやらせてください」と言ったらあっさり「いいよ」と言ってもらえて、もうその場で入社を決めましたね。

 入社後の配属面接でも一悶着ありました。所長が「うちのこのユニットに行け」と最初から決めてかかっていたんですが、前夜にたまたま別のユニットの課長と飲んで「こっちの方が面白い研究をしているな」と思っていた。だから面接で「違います、こっちの方が面白いです、こちらに行かせてください」と押し通しました。所長に「俺は所長だぞ!お前のためにそこに決めてやったんだぞ!」とものすごく怒られながらも、「課長さんがAIでやりたいって言ってましたもん」と言い続け、最終的には希望通りのユニットに入れてもらえました。そのユニットの上司とは今でも友人として付き合っています。

 大学の学科選びも、就職先選びも、配属先の選択も、好きなことをちゃんと主張した方があとから良かったと思えます。これが1つ目のメッセージです。

日立での研究 ―AIと知識工学、高炉制御

― 日立の研究所では具体的にどのような研究をされていたのですか?

 最初に取り組んだのは「知識工学」と呼ばれる分野です。人間の知識をコンピューターに埋め込みましょう、というものですね。普通はプログラムを書かないといけないのですが、プログラムって書くのが大変でしょう。だから人間に分かるような自然言語に近い形で、「もし〇〇ならばこうします(if-thenルール)」というルールを書いて、それを計算機に読み込ませるシステムを作っていました。「バルブの温度が15度以上になったらこれを閉めろ」というような、疑似的な自然言語のルールを何百件と並べるイメージです。

 実際に応用したのが製鉄所の「高炉」制御です。高炉というのは上から鉄鉱石と石炭をボンボン入れ、下から空気を送り込んで熱風を吹かせると、途中で鉄鉱石が真っ赤に溶けてドロドロと流れ出てくる仕組みです。めちゃくちゃ単純なようですが、実はものすごく繊細で、一度失敗して中が固まったら爆破して壊すしかないんです。だから一度動かすと何十年も止めずに動かし続ける。当時はそれをほぼ計算機制御なしにやっていた。

 その高炉には「神様」みたいなベテランの職人さんがいて、炉のあちこちにある窓から中の状態を見てはこうしろ・ああしろと指示を出していました。新日鉄でやりましたが、神様が何人かいて、「どんな時はどうする?」「どんな時に熱くしろ?」「どんな時に鉄鉱石を入れろ?」というのを1,000件近く聞き出して、私たちの計算機に入れて制御しようというものでした。当時は計算機だけで1億円ほどかかる時代でしたが、それだけ重要な制御だということです。

 「真っ赤な状態はどんな分布か」という曖昧な表現を扱うためにファジー理論も使いました。神様の言う「真っ赤」というのは曖昧なわけですが、それをファジーで確率的な分布として表現できる。ファジー制御も使いながら、人間の知識を計算機に埋め込んでいく研究でした。

― その後、アメリカへの留学もされたとか。

 はい。疑似的な自然言語でルールを書いていたのですが、本物の自然言語にしたいという思いがずっとあって。自然言語処理をもっと本格的に勉強したいと思っていたところ、会社がカーネギーメロン大学の機械翻訳センターに行かせてくれることになりました。どんな自然言語が来ても分析できる「パーザー(構文解析器)」の研究を1年間していました。帰ってきたら、今まで疑似的な自然言語で書いていたルールを本物の自然言語で動かせるようにするぞ、と意気込んでいたんです。

人間万事塞翁が馬 ―思わぬ転機が実を結ぶ

― 2つ目のメッセージについても教えていただけますか?

 「人間万事塞翁が馬」という故事成語はご存じですか?古代中国の話で、馬を飼っていた男の馬がいなくなってしまった。悲しんでいたら、その馬が名馬を連れて帰ってきた。ラッキーだと喜んでいたら、息子がその馬に乗って遊んでいて落馬して骨折してしまった。不幸だと嘆いていたら、その地域で戦争が始まった。骨折していたおかげで息子は出征せずに済んだ。良いことが悪いことに変わり、悪いことが良いことに変わる。だから、その時々の出来事に一喜一憂してもしょうがないよ、という話です。

 これを私自身が痛切に感じた出来事がありました。カーネギーメロン大学での1年間の留学から帰ろうとしたとき、会社から「国際ファジー工学研究所に行け」と命令されたんです。私はもう10年近く自然言語処理をやっていて、留学もそのためにパーザーを勉強してきたのに、全然違う研究所に行けと言われた。これはもう、ものすごく腹が立ちましたね。

 当時は国際電話が今とは比べものにならないくらい高かった。それでもアメリカから電話をかけて「絶対に行きません」と言い続けていたんですが、最後に上司から「お前、これ国際電話なんだぞ!」と怒鳴られて電話を切られてしまいました(笑)。本気で日立をやめようと決心しましたよ。帰国したらすぐやめようと。

― それでも踏みとどまったのはなぜですか?

 実は裏話があって。大学時代の研究室でファジーに触れていたんです。国際ファジー工学研究所は、私の大学時代の恩師が作った研究所でした。恩師からも「手伝ってくれ、研究所を作ったけどなかなかうまくいかない」と手紙が来ていた。当時はメールじゃなくて手紙ですよ。でも私はもう自然言語一筋で10年近くやってきたので「興味がないから行きません」と断っていたんです。そうこうしているうちに上司や偉い人からも「行け行け」となってしまって、もうダメだったですね。

 自然言語と曖昧さの処理、そしてファジーは実は近い分野ではあるし、ま、やってみてもいいか、と。結局命令には逆らえなくて(笑)行ったんです。

 そうしたら、実際にやってみると結構面白くて。しかも日立のような民間企業は競争上の理由から論文をあまり書けない制約があります。特許を先に出してからでないとダメとか、書く時も必ず確認が要るとか。でも国際ファジー工学研究所は半官半民の組織だったので、論文を書くことが仕事だった。私のもとには部下もついて、4年間でたくさんの論文を書けました。その業績を元に電気通信大学に公募して来られたんです。

 嫌だなと思っていたけれど、ファジー理論は今でも面白い分野だと思っているし、業績も積み上がって電通大着任につながった。やっぱり言われたことでも、しばらく耐えてやってみると良いことになるかもしれない。これが2つ目のメッセージです。

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